彩の無い天使

彩の無い天使

「彼女たちの未来は輝いている。私はそれを守りたい」 家族の愛を感じられないまま、人の『顔色』をうかがって毎日を過ごしてきた私。 胸のうちに秘めた計画を、いよいよ実行する時がきた。 これは彼女たちの未来を守るための、輝く未来への第一歩・・・ 現代における社会問題、教師による性犯罪を取り上げた17歳の鮮烈な色彩の物語。 2人の3つ目の秘密とは?

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読者さまより

「Review 12 メモアヤ」

今回は、noteで出会った作品の感想文を書きたいと思う。

 南口綾瀬さんを知ったのは偶然だ。

 noteの「おすすめ」だったと思う。 確かにnoteの「おすすめ」機能は精度が高い。 私が読みたい本やクリエーターさんを教えてくれる。

 ちょうど長編小説の途中を目にしたのだが、 遡っているうちに南口さんがAmazonで電子書籍を出していらっしゃることを知り、 その中から『針の上で歌う』『 いろ の無い天使』の二作品を読んだ。

 最初に『針の上で歌う』を読んだときには、速攻で感想文を書きたくなかったが、 二作品は対になっているということだったので、少し思いとどまって改めて『彩の無い天使』を読んだ。

 あくまで個人的な考えだが、二つの作品は「児童文学」に分類してもよいのではないかと思う。 主人公は高校生だから少し、大人だ。 恋愛要素もあるし、甘やかで切ないラブストーリーとしても読める。 ただ、なによりも主人公の児童期が鮮烈な形で描き出されていて、 それが主人公の「現在」を形作っている。 作品にとって、とても大切な部分の多くが、主人公の児童期にある。 恋愛対象の男の子との出会いも児童期だし、彼らは何よりもまず友情をはぐくむ。

 実を言うと、私は児童文学が大好物だ。 子供の頃はもとより、大人になってからの方が沢山の児童文学に出会っている。 子供の頃に読めばよかった、というものもあれば、 子供の頃と大人になってからでは印象が全く違う話もある。

 昭和時代はどうしても「性的なものの排除」が 児童文学の 基準スタンダード だったように思うが、 最近は時代にあわせて変化しているのを感じる。 性的被害に関しても、表現として「児童文学」の中にあっていいと私は思っている。 むしろ子供たちは、少々倫理観の危うい漫画や動画からではなく、 こうした文学作品によって正確な情報を知るべきではないか、と思ったりもする。

 現代は、「まだ早い」「そんなことに関心を持ってはいけない」 「いやらしい」「汚らわしい」「教育上良くない」などと大人が言っている間に、 表現の自由のもと、倫理的にすれすれの漫画や動画にさらされたり、 悪意のある大人から痛めつけられる子供たちが沢山いるのが現実なのだ。 そして最近は、子供の性被害が白日のもとにさらされてきている。 大人になってから心の奥底に封印した記憶を思い出して、 「ああ、あれって、嫌だって言っていいことだったんだ。 やっぱりあのことは、私は悪くなかったんだ」と 密かに心に思う人もいるのではないだろうか。

 自分が被害者であることも知らず、起こったことを理解できず、 誰にも言うことができずに苦しむ子供たちを減らすためにも、 また友達が被害にあって苦しんでいることを理解できずに傷口に塩を塗る子供を減らすためにも、「子供がそんなことを知る必要はない」と大人が決める必要はない、と思っている。

 もちろん、表現そのものには注意が必要だと思うが、 子供には純真で純朴でいてほしい、キラキラしたその瞳を守りぬかなければ、 という、過剰な願望の押し付けはやめた方がいいんじゃないか、と思う。 子供は「子供という種族」ではない。「大人になる人間」だ。

 そう言う意味では「高校生」という未成年だが 第二次性徴を超えた年齢の人物を主人公に置き、 そこにいたる児童期の過程を克明に描くという手法は理に適っているのではないか、 少年少女に勇気を与えるとともに、 彼らに自分の身を守るすべを伝えることにもなるんじゃないか、と思う。

 『針の上で歌う』は、主人公アヤの場面緘黙と、 内的な闘いをテーマにしている。 アヤは自分のもつ「特性」のネガティブな面をなんとか克服しようと努力し続ける女の子だ。 場面緘黙は幼少期に適切な対処や配慮があれば、 自然に緩和していくことも多いと聞く。 しかし各人の特性に応じた教育が叫ばれるようになったのはごく最近のことで、 少し前は問題を抱えた場合、なかなか手助けや理解が得られないままになってしまう、 ということは往々にしてあった。

 アヤは自力で自分の「特性」を克服しようとする。 もちろん、何度も何度も負ける。 闘いに挑んでは「また駄目だった」と落ち込むし、 その結果誰かを傷つけてしまったり、友達が離れて行ってしまうこともある。 それでもアヤは諦めない。 少数だが理解してくれる友達がいて、アヤの真心が彼らにも影響を与えながら、 「動画投稿」をきっかけに大きく前進するのを、読者は一緒になって応援しながら読み進める。 アヤのたったひとつの武器は「音楽」だ。 この物語は「音」が重要なキーとなる。音がアヤと人を引き離し、音がアヤと人を結び付ける。

 私も自分のnoteで幾度か触れているが、人生の途中でメンタルの症状に悩んだことがあるから、 この頑張ってもどうしてもできないという、 手ごたえの無いリールを手繰るような苦しみが少しは理解できる。 自分では何とかしようと必死の努力をしているのだが、 どうしても考えたようには「できない」。 自分が弱い、自分が悪いと自分を責めてしまう悪循環。 自分の症状に対して学ぶことができる大人ならまだましだ。 それが子供時代にあったら、どれほど辛いかと思う。 心の症状というのは、何かのきっかけがあれば人間だれでも、味わいうることなのだ。

 場面緘黙の「症状」が出てくる場面は本当に痛々しい。 作者の南口さんは自身の経験からこの本を著したということで、その表現は具体的かつ生々しい。

 場面緘黙がどういうものかについては、漠然とではあるが知識があった。 家でも話をしない緘黙という症状もある。 無理解な昭和の時代には心無い言葉も投げかけられたし、 教師の対応も適切さを欠いたものが多かった。 しかしこの本を読んで改めて、あの時あの子はこんな風に感じていたのか、 知らなかったと懺悔の気持ちが湧いてくる。

 また、音とともに香りも重要な要素として描かれている。 こうして二つの「感覚」が共存するところに、この作品のもうひとつのテーマがある。 「共感覚」だ。このお話では「音を聴くと香りがする」といったような「音と香り」に 直接の関係性はないが、それでも不可分に話が展開する。 「思い出」と強く結びつくのが、音と香りなのだ。ひとつの出来事に絡みつく、ふたつの「感覚」。

 『彩の無い天使』の方は、より性的な部分に踏み込んだ内容になっている。 児童期に性的被害者となったことで心に傷を負ったアヤ。 アヤはもともと、HSC(ハイセンシティブチャイルド)だったので、 負った傷はさらに深く、彼女の成長に影を落とす。 具体的に何があったかを、自分はもちろん、 周囲もはっきりと「言葉」で表現し理解することのないままに、 翻弄され、傷つき、疲れ果ててさらに傷つけあう。

 しかしそんな逆風の中でもアヤは闘う。ひとり闘う彩の表現は「絵」だ。 普段内面が表に出ないように振舞うアヤの心の深層を「絵」は深くえぐりだし、 家族は手助けできない絶望に傷ついてしまうのだが、 アヤの内部を「浄化」しているのもその絵なのだ。 絵が無ければ押しつぶされてしまうであろう彼女の心を、 忍耐強く支える周りの人々が素晴らしい。

 特に母親の立場で読むと、また違う読みかたができる。 親と子の関りが丁寧に描かれているのも、ふたつの作品の特徴で、 それがまた「児童文学」の特徴でもある、と思う。 親として読むと、深く傷つき悩む娘を助けられない絶望を感じながら、 なんとか問題を克服しようとする思春期の心をどう支えて行こうか、と悩む母親の姿が見える。 それを繋ぐのが「食事」だ。

 この二つの物語では「食事」がとても効果的に描かれていると思う。 そして父親は一時不在となる。父親が無力だということではない。 どちらの物語も父親は比喩的な意味で「戻ってくる」。 父が物語的に不在になるのは、この物語が新型感染症に翻弄される時代と社会を 反映する装置として、でもあるのだが、なによりも母(姉)と娘は問題と向き合う時に 「線上」にあるからだと思う。

 ところでHSPというのは実は心理学的には正式な用語ではない。 心療内科の先生が今一番困るのがこの診断だという。 病気ではないため診断基準が無く、しかし「自分はHSPではないか」と受診する人が多いらしい。 ひとつの特性としての「過度に敏感な人」。 悩みの内容にも非常にスペクトラムがあるようだ。

 『彩の無い天使』のアヤは顔色を「視る」。 それは顔色を窺うといった意味ではなく、 対面した時に相手の状態を色として感じる「能力」だ。 それはひとつのHSPとしての特徴でもある。 『針の上で歌う』のところでも少し出てきたが、 こちらは音を聴いて色を見たり、数字に色を感じたりする「共感覚」の一種だ。 共感覚を感じる人は昔からいて、芸術家には特に多い。 古くはニュートンやゲーテもそうだったとか。 ニュートンは音と色の相関関係も研究している。

 この二作品が対だというのは、音と色が対だということとも相関していると思う。 主人公の名前はどちらの話も「アヤ」。 独立した別の物語ではあるが、新型感染症の流行下という同じ時間の中に存在している。

 ふたつの物語は、驚きの展開で伏線が回収され、鮮やかに終わる。 どちらも最後に希望の灯りをともして。

 爽快なカタルシスがあるからと言って、新型感染症が終わったわけではないし、 主人公の闘いが終わるわけではない。 主人公は、自分を支えてくれる人の存在に気づき、 闘う自分を受け入れ、負ける自分も受け入れて、生きていく。 生きていく勇気を手に入れる、二つの物語。

 ところで南口さんはデザイナー・イラストレーターさんで、 絵もすべてご自身で描かれている。非常に多才な方だ。 そのスッキリとした線の絵がとてもいい。 電子書籍だと挿絵がないが、挿絵のある紙の本も読んでみたい、と思う。

 ふたつとも、忘れられない作品になると思う。 noteでの出会いに深く感謝したい。 このふたつは三部作の中のふたつでもあるそうなので、 もう一つのお話もぜひいつか、読んでみたい。

※「メモアヤ」は、「目もあや」。 後に続く言葉によっては良くない表現もにもなってしまうのだが、 この記事のタイトルは「眩しい、目にも鮮やか、色彩豊かな」という意味。

January 15, 2022 (令和4年1月15日)
みらっち引用元